【book_20】西加奈子 著「舞台」: 他人が望む自分を演じることで私は自分の存在意義を微かに保っていただけなのかもしれない
どうも、つんどくです。
初めて西加奈子さんの作品を読みました。この人は一体、どれだけの時間をかけて自分と向き合ってきたのだろうか?そんな感想が自分の中でふと出てきました。
私が今まで演じてきた自分というものを意識していなかったにしろ、ここまで主人公の心情が私の感じるそれと重なるのは初めての事でした。
正直いって恐かった。
まるで西さんが私の内臓を無理やり引きずりだし、ひとつひとつを丁寧に描写しているようだった。
私だけが思う私だけの感情を彼女は、あーこんな感じなんでしょ?と平然とした態度で差し出してきた。ぐうのねも出なかった。
どうしたらこんな言葉が書けるのか?
貼った付箋の数は13カ所。私の中で圧倒的な数を目の前にして、事前に付箋を買っておいた自分をこの時だけは褒めた。
その中でも特に紹介したいところを数カ所ピックアップし、感想を述べていこうかと思います。
#西加奈子 さんの『#舞台』読了。
— つんどくです📚意識高い皮脂汗系ブロガー (@tsundokupig) 2018年12月8日
学生の頃から思っていた何か解らないけど自分に対する気持ち悪さがようやく理解できたかもしれない。
葉太の感情や行動に共感してしまう箇所が多かった。もっとちゃんとした感想を書きたい。書けよって感じだよな。#読書好きな人と繋がりたい #読書好きと繋がりたい
西加奈子 著 「舞台」
太宰治「人間失格」を愛する29歳の葉太。初めての海外、ガイドブックを丸暗記してニューヨーク旅行に臨むが、初日の盗難で無一文になる。間抜けと哀れまれることに耐えられずあくまで平然と振る舞おうとしたことで、旅は一日4ドルの極限生活にー。命がけで「自分」を獲得してゆく青年の格闘が胸を打つ傑作長編。(裏表紙より)
当時の私にとって「男度」は、自分の存在を光らせるブランド物のようだった。
男は、つまらないことで己の「男度」をひけらかそうとする。どれだけ汚い宿に泊まったか、どれだけ危険な目に遭ったか。どれだけ、無鉄砲な旅をしてきたか。修学旅行で財布をなくすのとは、どだい訳が違う窮地を、男は何度となく乗り越えなくてはならないのだ。(P.99 より)
私は海外に行った経験が何度かある。アメリカにも何度か行ったが、カリフォルニアばかりでニューヨークなどの東側には訪れたことがない。
海外に行くときは毎回目的を決めて行っていた。しかし、今思うと私はただ単にこの「男度」を磨くためだけに行っていたのかもしれない。
- 日本で食べるマクドナルドのアップルパイは、日本でしか食べられない(海外では普通のアップルパイ一切れが出てくる)。
- ホームレスは白昼堂々とお金をくれと言ってくる。1ドルを渡すとため息だけついて去っていく。
- 31アイスクリームは海外ではバスキンロビンスと言う。ロゴを見ると確かに書いてある。
- 夜の外出は危険だが、友達と深夜2時に自転車でマックのドライブスルーに行き、店員に"Oh, F〇ck You!"と言われる。
うんちく並べるならまだしも危険な目にわざと飛び込むのはやはり、他の人よりも人生を生きていると遠回しに主張したいからだろう。そして相手の中でこいつは違うと思わせる。大金をはたいて海外に行くのは、まわりの友達にそういうやつがいなかったからだ。「海外経験者」と「英語できる」という中々お目にかかれないブランド品を私は手に入れる為に海外が好きなのかもしれない。
そう思った。そう思ってしまった。
この文章で、無意識に私の中にひそんでいた事実が存在していることに気が付いた。
観光地や有名スポットなど、正直どうでも良かった。
「観光」ではない、「写真で見た景色」ではない。自分が今行った一連のやり取りこそ、ニューヨークだ。 (P.126 より)
海外から帰国してどこに行った?と質問されることが多い。
質問の意味は「どこの有名スポットに行った?」ということだが、有名どころには行かなかったと言うと、えーもったいない!と言われることがある。
私はあんたらが行く有名スポットで自撮りをしてSNSにアップして羨ましがられるような典型的なパターンはしたくないのだ。
英語が話せないからとびくびくして部屋に引きこもっているわけでもなく、ただ単に海外の空気に溶け込みたかった。
べっとりとまとわりついた日本の空気を早く拭い落としたかった。
- よく行くスタバで店員と挨拶を交わし、ちょっとした会話を楽しむ。
- 池のある公園のベンチに座ってペーパーバックを読む。
- ヤードセールで少し古いナイキのTシャツを買う。
- ダウンタウンをスケボーで散策する。
- 財布を持たず、ポケットに数ドル突っ込んでおく。
- 1ドルのピザをドクターペッパーで胃袋に流し込む
現地の人にとっての普通の生活をしたかった。そうすることで私も現地の人に近づけると思っていたからかもしれない。
それを普通とすることで、帰国後にさらっと言うと「うわーやっぱこいつはちげえな」と尊敬の目を向けられることを考えて行動していたのかもしれない。
今振り返ると実に小さい男である。
他人の望む自分を演じることができる自分は一体誰の為に存在するのか?
「誰に見せてるんだ?」
葉太の脳内で、声がした。葉太の声だった。
この顔を、俺は誰に見せてるんだ? (P.176 より)
この1行が私にとっての一番の恐怖だった。
私は誰の為に私を演じているのか?
見せたい相手が誰かもわからないのに私を演じている私は存在しているとは言えないのではないか?
ハッとした。
私は今まで誰かの望む私を演じていることでそれを無意識のうちに本当の私として生きてきてしまったのではないかと。
だってその方が楽だから。
巻末の特別対談で作者は、相手のことを考えて演じている自分を認めてほしい、と書いていた。
あ、いいんだ、と思った。
相手に合わせている自分って結局、ありのままの自分をさらけ出すのがこわいだけの臆病者じゃん。私ってすげーださい、と思っていた。
しかし、この対談で自分はこのまま演じ続けていても良いんだと許されている気がした。
自分が認めてあげることで、見えてくる景色はきっと変わる。そう思うとなんだか心がすーっと軽くなって本を読み終えた。
本の感想というより自分がこの本を読んでどう自分の在り方を認識したのかという話になってしまった。
自分とはいったい何なのか?
そういうモンモンとした感情の中で晴れることなく毎日を生きている人には何かしらのヒントを見つけることができると思いますので、是非読んでもらいたい作品です。
それではまた次回!
【今日のひとこと】いやー西加奈子さんハマっちゃったなーww